Football in My Life

アクセスカウンタ

zoom RSS カズとラモスとオフトとドーハ。

<<   作成日時 : 2013/10/18 10:07  

なるほど(納得、参考になった、ヘー) ブログ気持玉 4 / トラックバック 0 / コメント 0

昨日発売の
スポーツ・グラフィック誌「ナンバー」の
特集は、サッカー日本代表の
いわゆる「ドーハの悲劇」だった。
新聞朝刊の広告でこれを知った私は、
最寄り駅のコンビニでナンバーが
販売されていたことを思い出し、
出勤途中にこれを買った。
そして、暇な時間は、
ナンバーのこの特集を
ずっと読んだ。

1993年、Jリーグの始まったこの年、
サッカー日本代表は、
ワールドカップ最終予選にのぞんでいた。
サウジに1-1で引き分け、
イランに1-2で破れて、
ワールドカップ初出場の夢は
途切れそうになった。
が、北朝鮮、韓国に連勝し、
最後のイラクに勝てば必ず、
引き分けでも韓国が北朝鮮に
3-0以上の勝利でなければ
W杯出場権を得られるという
状況だった。

当時、このワールドカップが
アジアの中立国カタールのドーハで
集中開催されることに
何の疑問も持っていなかった。
プロスポーツといえば、
当時は野球と相撲ぐらいしかなく、
アマチュアの高校スポーツでも、
甲子園、インターハイ、サッカー選手権
はいつも同じ時期に
集中開催されるのが当たり前。
連日、連戦で強いチームの中の
ナンバーワンを決める、
というのは日本人の常識だった。

始まったばかりのJリーグも、
水曜、土曜の週二回の試合。
しかも、延長あり、
しかも延長はVゴールという方式で、
それで決着しないときはPK戦だった。

プロ野球の放映時間延長が
当たり前だったので、
Jリーグの試合の放送時間延長も
当たり前の頃だった。

刺激的だった。
ちんたらちんたらやってる
プロ野球に比べ、
攻守が激しく変わるサッカーは、
トイレに行く時間もない、
と知り合いの女性にも言われる始末。
しかも、Vゴールに
PKもサドンデスまで行くと、
まず間違いなく、シビレル。(笑)
この頃は沿線に住んでいたので
浦和レッズの試合に何度か言ったが、
とにかく毎回負けた。

しかもチケットはなかなか取れず、
ダフ屋はかなり儲かったらしい。
そう、これがJリーグバブル。

そして前期のサントリーシリーズが終わり、
後期のニコスシリーズの中断中に、
このアジア最終予選に日本代表は
のぞんでいた。

そのイラク対日本代表の試合は、
テレビ東京系で放映されていた。
実家に帰っていた私は、
居間でそれを見ていた。
私には歳の離れた兄が二人いるが、
その兄も一緒に見ていた、と思う。
初めてこのブログに書くかもしれないが、
私はこの二人の影響で、
サッカーを始めた。
兄の部屋に、漫画「キャプテン翼」があったのだ。

試合の進行、結果は、
もう皆さんのご存知の通りである。

何が起きたのか、
理解できなかった?
あれ、何でショートコーナー?
あれ、試合終了?
あれ、韓国が3-0で勝った?
日本代表はワールドカップにいけないの?

テレビの実況の人も
何も言っていなかった。
実況は、いまはフリー?のサッカー実況、
当時はテレビ東京の局アナ、
久保田氏だった。
久保田氏の前は、有名なダイヤモンドサッカーの
実況だった金子勝彦氏。

ナンバーによると、
久保田氏はアナウンサーにあってはならない、
「空白の2分間」をつくってしまったらしい。

テレビの画面は切り替わった。
テレビ東京のサッカー中継の名手、
金子勝彦氏ががっかりしている。
漫画ズウズウシイをサッカーマガジンに
連載していた望月三起矢?氏も。
そして、柱谷幸一氏が泣いていた。
現ギラバンツ北九州の監督である。
当時の日本代表のキャプテンは
彼の弟、柱谷哲二選手だった。
(現水戸ホーリーホック監督)

我が家の居間では、
一人の兄が泣いていた。
長兄は自分の部屋に行ってしまった。
父も見ていて、
不機嫌そうに寝室に言ってしまった。

私は、・・・。
泣いていた。
いつも間にかに泣いていた。

翌日は
たしか友人のチームの
サッカーの試合があって、
私は飛び入りの助っ人として
試合に出ることになっていた。
そう、そのために実家に
帰ってきていたのであった。

相手は地元の消防隊のチームで
カラダをいつも鍛えているので、
とても強かった、と思う。
私のポジションはセンターバック。
本来は右のウイングだが、
高校時代の経験もあり、
当時は俊足だったので、
もう一人の俊足と一緒に
守りを固めた。

相手が私のマークするFWに
クサビパスを入れてきたので、
それを予測しインターセプトすると、
私の前にはスペースがあって、
マークはされていないのどフリーだった。
そのままドリブルで持ち上がると、
カウンターのチャンスだったが、
ふと見ると、GKが前に出ている。
そこでハーフウェイラインくらいから、
超ロングシュートを撃つと、
ものすごい絶妙なコースに
ボールは飛んで、入った。

私は、ものすごい声で叫んだ。
残り数分は耐えに耐えて、
そして勝利を掴んだ。
みんなが私に寄ってきた。
「うおぉ」

みんな叫びたかったのだ。
そして泣いた。

なんで俺達はこうやって勝てるのに、
日本代表はこうやらなかったのか。

勝利の雄たけびはそれまでで、
私達は着替えて、
遅い昼食を食べに行くと、
みんなで「ドーハの悲劇」
のことを話し合った。
みんな、泣いたらしい。
中には、一睡もできずに
この試合に来た奴もいた。
私は寝たので、
そこまでショックじゃなかったのか、
と自己嫌悪に陥った。

その2週後くらいに
フランス代表がやはり試合終了間際の
失点でワールドカップ出場を逃していたのが
ニュースで流れた。

でもフランスはいい。
もうワールドカップに出たことがあるから。

当時、2002年に日本でワールドカップを
開催することが決まっていて、
開催国として初出場なのか、
とか出たことがない国が
ワールドカップを開けるのか、とか
そういうことがメディアで話題になっていた、
と思う。

そして次のワールドカップ・フランス大会こそ、
という機運になって、
Jリーグの熱狂は続いた。
ラモスは代表からの引退を表明し、
オフト監督は辞任した。
ゴン中山のお父さんが
田舎の父丸出しでテレビに出演し、
「ゴン父(ゴンチチ)」として有名になった。

ドーハの悲劇の主人公となった
サッカー日本代表の選手達は
逆に人気者になった。
ヴェルディの武田選手は、
フジテレビの「笑っていいとも!」に
ゲスト出演し、
最後のセンタリングを入れた場面の
胸中を告白していた。

ワールドカップ初出場を目指し、
プロサッカー選手が、
Jリーグで活躍した。

そして、ジョホールバルで、
イランに延長の末、勝ち、
フランス大会の出場権を掴む。
そして、次の2002年、
日韓ワールドカップが開かれた。

日本のサッカー界が熱かった時代。
当時の熱狂に、
私ものっていたのだ、
といまさら気がつく。
サッカーの指導者になり、
C級ライセンスを獲りに合宿に向かった。
たしかそれが1996。

ドーハの悲劇は、悲劇だが、
あれがあったからこそ、
日本のサッカー界は爆発的に
発展した、と思う。

いまは、そう思える。

タイトルは、
河島英五氏の歌「酒と涙と男と女」
の韻を踏んだつもりです。
恩師である大学教授が、
最初で最後に連れて行ったくれた
高級クラブで、歌った歌です。
たしか、それは1995年です。

テーマ

関連テーマ 一覧


月別リンク

ブログ気持玉

クリックして気持ちを伝えよう!
ログインしてクリックすれば、自分のブログへのリンクが付きます。
→ログインへ
気持玉数 : 4
なるほど(納得、参考になった、ヘー) なるほど(納得、参考になった、ヘー)
ナイス ナイス

トラックバック(0件)

タイトル (本文) ブログ名/日時

トラックバック用URL help


自分のブログにトラックバック記事作成(会員用) help

タイトル
本 文

コメント(0件)

内 容 ニックネーム/日時

コメントする help

ニックネーム
本 文
カズとラモスとオフトとドーハ。 Football in My Life/BIGLOBEウェブリブログ
文字サイズ:       閉じる